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スエズ運河 SUEZ CANAL | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20th Nov. 1976 DAIKO MARU 21th Jan. 1977 DAIKO MARU |
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スエズ運河 SUEZ CANAL 地中海と紅海を結ぶ計画は古くからあり、紀元前2000年頃のエジプト王朝時代にナイル河とスエズ湾を東西に結ぶ運河が建設されたと言われる。この運河は何回かの荒廃と修復が繰り返された後、砂に埋もれた。 [運河開削] スエズ運河を南北に貫く運河は18世紀末ナポレオンのエジプト遠征時にも計画され、測量が行われたが実現しなかった。1854年フランス人レセップスはエジプトの太守サイド・パシャよりスエズ運河建設の利権を得、58年スエズ運河会社 COMPAGNIE UNIVERSELLE DU CANAL MARITIME DE SUEZ を設立。 フランス約52%、エジプトが44%出資した。 59年着工、69年開通、開通後75年エジプトはスエズ運河会社の持株をイギリスに売却、82年イギリス軍はエジプト及びスエズ運河地帯を占領し、運河地帯は1956年までイギリス軍の基地となった。 [国有化] 1952年ナセル革命が成功すると54年イギリス軍の撤退のためのイギリス-エジプト条約を結び56年までに撤退が完了した。同年ナセルは運河の国有化とその収益をアスワン・ハイ・ダム建設の資金とする宣言をし、これに反対するイギリス・フランス・イスラエルが運河地帯に侵攻しスエズ動乱が起った。この中東戦争によって67年6月以降運河は閉鎖されたが、1976年再び再開された。 運河は平水航路、所要時間約15時間、運河開通によってアフリカ南端の喜望峰回りの航路より17%〜55%短縮され、世界貿易の幹線航路となった。 (レセップス Lesseps, Ferdinand Mariede 1805〜94年) フランスの外交官、スエズ運河の建設者。 1854年エジプトの太守サイド・パシャ Said Pasha 1822〜63(在位1854〜63)からスエズ運河建設の権利を得て、59年起工69年(明治2年)完成、パナマ運河の建設も計画し81年に着工したが失敗、パナマ運河会社は破産した。この時、会社の政界に対する買収行為が明るみに出て、彼は禁固5年の刑を宣告されたが、執行はされなかった。(パナマ事件) |
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THE SUEZ CANAL 下記は乗船パイロットが持参したものを そのまま日本文に訳して説明とする。 |
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THE SUEZ CANAL |
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1.歴史概容 RED SEA と MEDITERRANIAN SEA を結ぶ計画は紀元前2000年に遡る。 最初の運河は紀元前2000年、エジプト王 SENOUSRET III、PHARAHの治世の時作られた。泥で塞がり永く放棄された運河は、回教徒の征服の後、ペルシャ王 DARIUS I、PTOLEMY II、TRAJAN皇帝、回教王 OMAR Ibn El-KHATTAB により相次いで航海が再開された。 1859年 4月25日 運河開削が始められ、 1869年11月17日 開通された。(明治2年) |
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2.運河の特色
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3.世界貿易への影響 スエズ運河は、東と西を結ぶ最も短い航海ルートである。 船舶のアフリカ廻りの宿命を救い、地中海にある南欧州の港とアラブガルフ間の距離を50%以上短縮する。 |
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4.船舶の通航 水先案内は500トン以上普通の船、またタンカーはトン数の如何に拘らず強制である。 運河の交通は、1950年国有化以来、着々と増加している。 船の通航数一日平均は、1955年の40.2に対し60に達した。 運河に課せられた制限速力は、航行船の種類とトン数によるも13〜14km/h (7〜7.5knot)の間である。 |
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5.運河の計画 国有化の日以来、スエズ運河局の方針は運河改良を目指した。 世界海運の大勢の堅実な発展に対処すべく同時に、航行船舶の効果的サービスを企てた。国有化のその日、許し得る吃水は35ft(10.66m)、水面下横断面積は1200平方メートル、最大トン数はタンカーの38,000トンまで許された。 しかし、1958年運河局は2段階において、吃水の増加と河幅を広くする企ての実行を開始した。 (5-1)第一段階: 運河局は1958年1月初め、水面下横断面積を1200平方メートルから1800平方メートルに、また満船の通航船舶60,000トンを許すため、吃水を35ft(11.58m)に増加する目的で実行に取掛かった。 この段階の実行は、1964年の初めに完了した。 (5-2)第二段階: これは、満船タンカー70,000トンの通航を許すべく、40ft(12.19m)まで吃水を増加すべく計画された。この作業は、1965年初めに開始され1967年に完了される予定であったが、イスラエルの攻撃のため出来なかった。 |
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6.ジャイアントタンカー通航のためのスエズ運河改良計画 世界のタンカー通商の発展と、運河より北の国々、特にアラビヤンガルフの油のための西ヨーロッパやアメリカのため、堅実な調査の光明の中になされた。 それは2段階の運河開発計画を実行することを決心させた。 (6-1)第一段階: それは運河の幅を広くすることを目指した。すなわち運河の水面下横断面積を1800平方メートルから3200平方メートルに増し、通航可能吃水を38ftから53ft(16.15m)にすること。 これは150,000トンタンカーの満船通航を許し、それ以上のトン数のタンカーをバラスト通航や、部分積の通航を許す。 この段階に含まれる仕事は1967年2月22日有力に発足した。 しかし1967年7月イスラエル侵攻で成就されなかった。 (6-2)第二段階: この段階では運河の幅を広げ又深くし、水面下横断面積を4200平方メートルにし航行可能吃水を67ft(20.41m)とする。 これは260,000トン満船タンカーと300,000トンの一部積みタンカーと、それ以上のトン数のバラスト運航のタンカーの通航を許す。 |
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7.通行船舶に対する補助サービスの提供 運河改良計画は、航行水路の幅を広げ、深くすることに限界はない。しかし又、航行のため最も最新式な装備と補助機械で運河を設備することを目指している。すなわちラジオ、電気通信システム、運河航行中の各船のコンディションを知るためのコンピューターで舵のコントロールを連絡する装置等である。 この計画は最新のサルベージ タグボートを水路に用意することを目標にしている。これは運河通航中のトラブル、船の災害を救うためであり、戦後の頽廃・消火のための船、又 クレーン船、潜水、引揚機械、運河局のドレッジャー隊の増強を、運河の維持のため目指している。 |
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8.ポートサイドとスエズ港 コンテナ船の接岸をさせるために、特別の岩壁を作るため二つの港を改良することに決められた。最新式の装備でそれらを設備する。 政府はこれら二つの港にフリーゾーンを作るための計画を改めた。 このようにして、世界船舶の振興のために最も有為なサービスと輝かしい将来を見込んでいる。 このように、運河は MOHAMED ANWAR EL SADAT の擁護の下に、世界の人々に繁栄をもたらすために前進している。 |
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31°-15′N 32°-18′W 付近 PORT SAID 20th NOV 1976 |
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同上 PORT FOUAD 20th NOV 1976 |
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同上 PORT FOUAD ここを過ぎると向こうに運河が見える。 20th NOV 1976 |
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PORT SAID 通過 運河に入る 船尾より。 20th NOV 1976 |
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同上 |
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Lake TIMSAH に向かう。 両側共 まるで水なしの砂漠 20th NOV 1976 |
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Great(Little?) BITTER LAKE 入り口付近 20th NOV 1976 |
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運河沿線には まだスエズ動乱の跡が残る所もあり。 20th NOV 1976 |
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EGYPT側沿岸には EGYPT軍の戦車、あるいは、対岸をにらんだ機関銃の砲座が随所に見られた。 20th NOV 1976 |
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173km 約93里のSUEZ CANAL も終焉に近付く。 |
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EGYPT SADE PORT IBRAHIM 20th NOV 1976 |
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PORT TAUFIQ |
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PORT IBRAHIM 越しに DUEZ CITY | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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・・・・・・・・・・・・ 遠洋航路の機関長の海外見聞写真帳 ・・・・・・・・・・・・ - since 2008/03/03 - |
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